釈迦文院略縁起
当院は弘法大師ご入定後百七十年後、祈親上人の開墓にて、上人は高野山が雷火により一山灰燼に帰し、住山の僧さえもまばらとなり、奥の院、伽藍諸堂の香煙も絶え、第一の荒廃期となり、これを復興し、高野山を発展させた。奥の院に万灯会を行い。
有名な孝女おてるの献じたお照の一灯もこの時である。又上人は名の如く、両親の菩提のため常に経を唱えておられた。山の中興者として世に大師再来の身と仰がれ、後村上天皇より常照上人とおくりなされた。
その後名僧大徳住し、徳川時代家康公より、山内一千余ヵ寺中、由緒ある名室寺院二十ヵ寺に選ばれ、全盛を極めた。大檀主は岡山津山城主、播州赤穂城主森家代々(森蘭丸一族)の菩提所として、庇護をうけた。又大阪、静岡、但馬、美作、大和の諸国に末寺五十余寺を擁していた。
明治四年に本最後の仇討として世に知らせている高野山麓神谷の仇討は赤穂藩士同志にて、その菩提を弔っている。この仇討により翌明治五年仇討が禁じられた。
重要文化財には、本尊大日如来、不動明王、大師筆益田池碑銘を襲蔵し、ほか多数の什宝を蔵している。